博多の姫の穏やかな暮らしのブログ

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股関節手術で学び直した経済理論、市場主義は誤り

[ロンドン 3日 ロイター BREAKINGVIEWS] - 筆者が先週受けた人工
股関節手術は、経済理論を医療の現場に当てはめてみる、またとない機会となった。

手術が成功裏に終わり、鎮痛剤の効果が切れる中で、長年信じられてきた経済理論の有効性について思いを巡らせてみた。以下に、オックスフォードのマノーア病院で過ごした3日間で私が学んだ4つの教訓を論じてみたい。そこは英国民保健サービスが、ごく一般的なこの手術のために私を送り込んだ小規模な民間病院だった。


最初に教訓を得たのは、私を担当する外科医が、手術は工場の組み立てラインのようなものだと説明した時だった。パチンと切り取り、挿入して縫合する。担当医はこの手術を相当な件数こなしており、ほとんど機械的にやってのけられるのだという。


この話は、分業化された作業が労働者の精神に及ぼす影響について書いた経済学者アダム・スミスの分析を私に思い起こさせた。「全生涯を少数の単純作業に費やす人は(中略)自然に(中略)人間として成り下がれる限り愚かになり、無知になる」


もちろん、私の外科医は全く愚かでも無知でもなかった。また、清掃作業や食事の準備に従事する人から、理学療法士や看護師まで、無数にある病院の細分化された仕事に就いている人々が無知だと言っている訳でもない。彼らは、ほとんど産業化されたスキルを使って仕事しながら、仕事や健康、そして人生一般について面白い会話をしてくれた。


それぞれの仕事内容の洗練度には大きな開きがあるものの、病院は陰鬱で非人間的というイメージの生産現場とは正反対だった。現代経済学の祖と呼ばれるスミスは、労働の分業化によって、労働者が個性と仕事上の技術を発達させていくことは予期していなかった。


2つ目の教訓は、カール・マルクスについてだった。


共産主義思想の父であるマルクスは1848年2月の「共産党宣言」で、「これまでのすべて社会の歴史は階級闘争の歴史である」と表明し、近代は「資本家階級と労働者階級」の闘争であると主張した。


だがこの理論も、私の病院での経験に当てはまらない。


確かに病院は、階級間の対立の温床にはもってこいの場所にみえる。肩書から制服に至るまで、ステータスが明確に示されている。上役への服従は義務だ。それでも、この病院にはマルクス的闘争の気配はまったくなかった。


1つには、賃金が最低水準の清掃作業員からトップクラスの外科医まで、そこで働くほぼ全ての人が「ブルジョワ」に分類されるということがあるだろう。だがさらに重要なのは、ある目的に向かって努力する集団というのは、どんな階級対立よりも強力だということだろう。「一致団結した治療チーム」とは月並みな表現に聞こえるかもしれないが、私が毎日24時間目の当たりにした現実だった。


マノーア病院は、社会主義者のユートピアではない。不公平な待遇を受けていると感じている病院の従業員が多数いることは間違いないと思うし、そう感じるのは恐らく正当なのだろう。それでも、マルクスが言うような苦々しく不可避な社会の対立は、全く当てはまらなかった。


3つ目の教訓は、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーとその信奉者たちについてだ。彼らが論じた近代経済の官僚的な性質は、完全に正しかった。


ウェーバーは医療の話に触れていないが、彼が1世紀前に記した「単一だが整然と統合された機能の習熟における、習慣的な妙技」 という描写は、医療現場にぴったりだ。


こっちが手術をする足だと分かるように付けられた矢印(彼らは「右足」などとは絶対に呼ばない)から、無数のチェックリスト、詳細な記録に至るまで、数知れぬ作業と責任は細かいルールに従って割り振られ、達成されていた。


こうした確認作業は、まるで私の股関節がネット通販アマゾンの倉庫を流れる荷物であるかのように、機械的に聞こえるかもしれない。だが、そのような感じは受けなかった。


反対に、誰もが自分の役割を知り、ほぼその通りに実行しているという自信によって、友好的な雰囲気が生まれていた。スタッフは、それぞれプロとしての責任の上に、患者を支える個人的な人間関係を築くことができていた。


最後に、市場こそがすべての経済的問題の解決策だと考える狂信的エコノミストは、医療の作業について検証したことがないということが分かった。多岐にわたる準備と、よく調整され、実行されていく手順とを組み合わせたこの複雑な世界に、市場は雑すぎる。


最大の問題は、市場は価格に依拠することだ。だが、仮に医療の価格設定が一定であったとしても、そうした数字は、治療を組み立てる困難な作業にはほとんど関係がない。医療への投資や教育、またはさまざまな症状への治療の割り振りを選択をする上で、価格はまったく指針にならない。


さらに、市場のシグナルは「努力の共有」を生み出さない。また市場は、医療の配分を患者の支払い能力でしか決められないが、それは民主的な価値に反する。


私の考えが、鎮痛剤で混乱していないことを願う。


もちろん、計画的なシステムが結果を誤ることがあることは理解している。実際のところ私は、人工股関節手術の必要性を過剰に見積もられたために得をした。手術を受けるまで待たずに済み、スタッフも比較的緊張せずに対応してくれたのだ。


それでも手術を通して学んだ基本的なことは、先進国の病院ならどこでも当てはまるものだろう。厳しい医療の現場での労働は、げんなりするものというよりは、刺激的なものなのだろう。階級的というよりも協働的で、官僚的だが非人間的ではない。現代医療の素晴らしさと苦悩の双方に、市場的な発想はそぐわない。


*筆者はロイターのコラムニストです。本コラムは筆者の個人的見解に基づいて書かれています。


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