博多の姫の穏やかな暮らしのブログ

シニアの備忘録・雑記を(記事/動画/楽曲)で紹介します。

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朝の音楽

デイ・ドリーム・ビリーバー  YouTubeより

忌野清志郎 デイ・ドリーム・ビリーバー【HD】
https://youtu.be/WF6kC7IqYhw


清志郎さん良いですね!
懐かしくなりますね。。。


詳しくは:忌野清志郎



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
忌野 清志郎(いまわの きよしろう、1951年4月2日 - 2009年5月2日)は、日本のロックミュージシャン。本名:栗原 清志(くりはら きよし)。


RCサクセションを筆頭に、忌野清志郎 & 2・3'S、忌野清志郎 Little Screaming Revue、ラフィータフィーなどのバンドを率い、ソウル・ブルースを下地にしたロックサウンドを展開。そのステージ上における圧倒的な存在感と、1983年に発表されたRCサクセションのライブアルバム「THE KING OF LIVE」の印象から、ザ・キング・オブ・ロックの異名を取った。
経歴[編集]


少年時代からバンドデビューまで[編集]
東京都中野区生まれ、国分寺市(現・国立市)育ち。みふじ幼稚園を経て国分寺市立第二小学校に通う。
小学生時代は漫画に熱中し、自作の漫画を近所に住んでいた吉田竜夫に見てもらったこともあった。
清志郎の母親の最初の夫(清志郎の実の父親ではない)は結婚して間もなく戦死している。母親は清志郎が3歳の時に33歳で亡くなった。その後、清志郎は伯母夫婦に養子として引き取られた。(2014年5月2日放送のNHK「ラストデイズ」より)
国分寺市立第三中学校時代にエレキブームに刺激を受け、ベンチャーズなどのカバーバンド「No Name」を結成、音楽活動を始める。
1966年初頭、フォークブームに刺激を受け、同級生でバンド仲間だった小林和生(のちの林小和生)、桶田賢一(のちの破廉ケンチ)と共に「The Clover」を結成する。
東京都立日野高等学校に進学する。高校時代は学校に馴染めず、かと言って不良でもなく、物静かな少年だった。あと何日休んだら単位が落ちるかを計算して、サボれるだけサボッていた。「トランジスタ・ラジオ」の中に授業をサボッて屋上でタバコを吸っているという歌詞があるが、これは清志郎の実体験である(2014年5月2日放送のNHK「ラストデイズ」」より)。同級生に三浦友和がいる。
高校時代、清志郎はサイケデリック・ミュージックの流れでビートルズやザ・バンドを聞き込んでいたが、ジョン・リー・フッカー好きの友人の影響で、ブルースに傾倒するようになる。
その後、バンドの解散/再編(The Clover→「The Remainders of The Clover」→「The Remainders of The Clover Succession」)を繰り返す。
1968年、「R.C.サクセション」結成。
1970年、フォークグループRCサクセションとしてシングル「宝くじは買わない」でデビュー。
「忌野」という芸名は、テレビアニメ「マイティ・ハーキュリー」で悪役「鉄仮面」登場シーンにおいて、「あの忌まわしい鉄仮面」というナレーションを幼少期に「カッコイイ言葉だな」と感じ、「今わの際」という日本語と掛け合わせて「忌野」と命名した(1995年にゲスト出演した関西テレビ「ノックは無用!」より)。なお、日本に「忌野」という苗字は実在せず、「忌」の字が含まれる苗字は「忌部(いんべ)」しか存在しない。
1972年、シングル「ぼくの好きな先生」がスマッシュヒットしたものの後が続かず、また事務所関係のトラブルが発生したこともあり、長期にわたってバンド活動は低迷する。
その間、清志郎は井上陽水との共作「帰れない二人」「待ちぼうけ」(共に『氷の世界』収録)、かぐや姫への作詞提供「あの唄が想い出せない」(『はじめまして』収録) などの印税で糊口を凌いだ。


バンド全盛期からソロ活動まで[編集]
1976年、事務所を「ホリプロ」から「りぼん」に移籍。スタジオミュージシャンを大々的に起用したアルバム『シングル・マン』を発表。以降、徐々にロックバンド化(俗に「エレキ化」と言われる)。
1977年からメンバーの脱退・加入を繰り返しながら、精力的なライブ活動を展開。また、この時期のいくつかのライブでは「栗原清志とオールスターズ」の名義を使っている。
1978年半ば頃から徐々にライブハウスでの人気が出始め、この時期からT.Rexのマーク・ボランやデヴィッド・ボウイ等のグラムロック一派やミック・ジャガーの影響でメイクを始め、またパンク・ファッションの影響でパンクヘアにカットしたことから、独特の奇抜な風貌になる。
1979年には音楽ライターの吉見佑子が『シングル・マン』再発実行委員会を組織するなど、音楽的に評価する空気が高まる。
1980年のシングル「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」、アルバム『RHAPSODY』のヒットで、YMOの坂本龍一と並び、RCサクセションの忌野清志郎はメディアの寵児として取り上げられることになった。
1982年、坂本龍一と組んでシングル「い・け・な・いルージュマジック」を発表。これ以降、RCサクセションとしての活動のかたわら、数多くのユニットでも活動。
このころ、ハードスケジュールなどがたたって肝臓を病むが、東洋医学などの文献を読み漁り家庭治療を実践し、奇跡的に完治している。
1984年、この時期の事務所の対応に不満を募らせ事務所「りぼん」から独立。
1985年、RCサクセションの事務所「うむ」を設立するが、このころからRCサクセション内でも各メンバーのソロ活動が活発化し、バンドの活動は停滞。
この時期、清志郎はライブ・エイドの日本放送版に「DANGER」で出演したり、『Merry Xmas Show』に出演したりなどした。
1987年、初のソロアルバム『RAZOR SHARP』を発表。
1988年、RCサクセションのアルバム『COVERS』の発売中止騒動を受けて、清志郎とよく似たZERRYという人物がザ・タイマーズを結成し、アン・ルイスのライブに飛び入り。以降、様々なミュージシャンのライブ・イベントライブに乱入を繰り返す。
清志郎がTEARDROPSに作詞提供&コーラス参加した「谷間のうた」がFM仙台とFM東京で放送禁止になった事件(1989年9月)を受けて、アルバム『THE TIMERS』のプロモーションで生放送の音楽番組「ヒットスタジオR&N」(フジテレビ)に出演(10月)した際に、キャラ設定を生かした巧みなメドレー形式を逆手にとった、その中の一曲をFM東京・FM仙台を放送禁止用語を交えて罵倒する歌に差し替えるという荒業を見せて話題になった。時期を同じくしてRCサクセションの崩壊(メンバーの脱退・加入が激しく、既に実態が無くなっていた)が進む。
1990年9月、アルバム『Baby a Go Go』発売し、それに付随するツアーの最終日の武道館公演(12月25日)、
1991年、RCサクセションは無期限活動休止を表明。RCサクセションの事務所「うむ」も解散したため、清志郎は個人事務所「ベイビィズ」を設立。
RCサクセションの解散以降、前にも増してさまざまなバンド・ユニットを渡り歩く。
1994年、プライベートスタジオ「ロックンロール研究所」を設立する。一方で俳優としての活動も始める。
同年、映画『119』に音楽監督として参加し、翌1995年の第18回日本アカデミー賞で最優秀音楽賞を受賞。
この時期、清志郎と良く似たZERRYという人物が率いるザ・タイマーズが活動を再開。彼らのレコ倫を通らない楽曲を発表させるために、インディーズレーベル「SWIM RECORDS」を設立。
1999年、「忌野清志郎 Little Screaming Revue」のアルバム『冬の十字架』、2000年に「ラフィータフィー」のアルバム『夏の十字架』が三度発売中止騒動に巻き込まれるなどトラブルを数多く抱えるなか、デビュー30周年記念のトリビュートコンサート「RESPECT!」を日本武道館で開催し、多くのミュージシャンが清志郎(およびRCサクセション)の楽曲を演奏した。
2000年、サイクリングにはまり、ラフィータフィーのメンバーを勧誘してチームLSD(Long Slow Distance)を結成。以降、ツアー間の移動に自転車を使ったり、奥の細道自転車ツアーやホノルル・センチュリーライドなど数多くの長距離サイクリングにも挑戦した。
2001年、中学時代の同級生に自転車の専門誌『サイクルスポーツ』の編集長がいたことから、そのつてでプロ仕様の自転車(特注)を入手。
2004年、サイクリング中に落車して左の鎖骨を骨折という事故を起こす。
2005年、愛車「オレンジ号」の盗難(のちに無事発見)という災難に遭う。しかし、生涯自転車熱が冷めることはなかった。


入院生活、そして最期のメッセージ[編集]
2006年5月、メンフィスでアルバム『夢助』(10月発売)をレコーディングして帰国。
2006年7月13日、公式ウェブサイト「地味変」にて喉頭癌で入院することを発表し、すべての音楽活動を休止する。 癌の摘出をすると声が出なくなると宣告されたことから、放射線や抗癌剤での完治を図り、入院後2週間で代替医療へと治療法を変更。
これは、がんセンターでの現代医学的な治療計画では胃に穴を開けての流動食生活となることを余儀なくされ、これに伴い唾液腺が消滅し、唾液が出ないためステージで歌うのは困難になると言われたことから。


2007年1月、石田長生のライブにシークレットゲストとして出演して以降、徐々に活動を再開した。
2008年2月10日、日本武道館にて『忌野清志郎 完全復活祭』を開催し、本格的に活動を再開する。
2008年7月14日、公式ウェブサイト「地味変」にて左腸骨への癌の転移を発表し、再びライブ活動を休止。 通院して治療に専念する一方で、楽曲提供や他ミュージシャンのレコーディング参加、ライブへの飛び入り参加などを続けていた。


11月、ファンクラブの会報が100号を突破する。
ほぼ同時期に間寛平への応援歌を描き下ろし自身の作品としては2年ぶりにレコーディングを行い、Booker T. & THE MG'sのライブに飛び入りする[2]など徐々に音楽活動を再開する。
FM802のキャンペーンソング「Oh! RADIO」を書き上げた2009年2月以降に体調が悪化。 当初は同曲を歌うユニット「RADIO SOUL 20」に参加する予定だったが、体調不良でキャンセルして東京都内の病院に入院。
その後、病床で3月にファンに向けてデビュー39年記念イラスト「39!BABY」を書き上げ[3]、これが最期のメッセージとなった。



葬儀[編集]
2009年5月1日午後に容態が急変し、5月2日午前0時51分に癌性リンパ管症のため死去した。58歳没。 家族の他、容態急変の報を聞いて病院に駆けつけた盟友の仲井戸麗市らが清志郎の最期を看取った。清志郎の愛弟子の三宅伸治も容態が急変した5月1日に約20分間見舞ったことを2009年5月8日付の自身のブログに記している。


5月4日、関係者のみの密葬が無宗教の献花形式で行われた。
5月9日、青山葬儀所でファンなどを対象にしたロック葬『忌野清志郎 AOYAMA ROCK'N ROLL SHOW』が行われ、弔問数は4万3000人[4]に及んだ。 これは、戦後の日本の葬儀においてはhideに次ぐ2番目の参列者の多さであった[5](奇しくも、そのhideとは命日が同じである)。
竹中直人、甲本ヒロト、大竹しのぶらが弔辞を読んだ。
戒名は芸名そのままの「忌野清志郎」であった。
清志郎の遺影は遺族の意向で「栗原清志」として笑顔で写ったプライベートパーティのものが使われた。


清志郎の墓は高尾霊園高乗寺にある。清志郎の一周忌を前にした2010年4月に建立された。


人物[編集]



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音楽性[編集]


共通語(標準語)のイントネーションにこだわった楽曲製作が特徴で、曲先の場合でも、イントネーションがおかしくなった場合は、メロディーを修正してでもイントネーションを正しくするという手法を取っていた。また、促音を強調し、日本語のメリハリを強調するという発声法を1970年代半ばから続けていた。[6]日本語をはっきり明瞭に歌うというスタイルは、後に甲本ヒロト、真島昌利(共にザ・クロマニヨンズ)、どんと(BO GUMBOS)、水戸華之介(アンジー)、宮田和弥 (JUN SKY WALKER(S))、中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)、YO-KING(真心ブラザーズ)、宮本浩次(エレファントカシマシ)、トータス松本(ウルフルズ)、佐藤伸治(フィッシュマンズ)などの数多くのフォロワー[7]を生む。


サウンド的なルーツは主にビートルズ、ベンチャーズなど1960年代中期に日本で人気のあったロック、ブラザーズ・フォア、ピーター・ポール・アンド・マリーなど1960年代に日本で人気のあったフォーク、オーティス・レディングを筆頭としたソウル・ブルース系のミュージシャンで、多くの楽曲で彼らのオマージュを行っている。ライブにおいてジェイムス・ブラウンのマントショーを再現することもしばしばあった。


前述の促音を強調をするきっかけになったのがオーティスの「ガッタ、ガッタ」シャウトだったり、「愛しあってるかい?」のフレーズがオーティスのMCからの意訳だったりと、オーティスからの影響は非常に強く、清志郎自身も最も影響を受けたミュージシャンの一人としてオーティスの名を挙げている。1991年にはスティーブ・クロッパープロデュースでアルバム『Memphis』を製作、翌1992年にはBooker T. & THE MG's(元オーティスのバックバンド)とツアーを行った。2006年にはオーティスの足跡を辿るドキュメンタリー番組をきっかけにスティーブと再会し、スティーブのプロデュースでアルバム『夢助』を製作した。


RCサクセションの停滞時期に、行き詰まって複雑なコード進行の曲ばかり作ってしまう悪循環に陥っているという反省から、たとえシンプルなコード進行の曲であってもロックのダイナミズムを持つローリング・ストーンズの楽曲研究を重ねた。のちに『RHAPSODY』で結実。RCサクセションのロックバンド化と並行しての作業だったことから、当時のライブパフォーマンスなどにも強い影響を及ぼした。


歌詞の転機は少なくとも
「雨あがりの夜空に」を書いた時(当時の事務所に下ネタをズバズバ言う人が多く、彼らの影響を受けた)。
「サマータイムブルース」を書いた時(清志郎の父親[当時すでに故人]の誕生日にチェルノブイリ原子力発電所事故が起こったことから反原発の歌詞を書いた)。
『COVERS』製作の時(母親の遺品整理の際に第二次世界大戦中の恨みつらみが書かれた日記を発見し、それを読み強い衝撃を受け、反戦・反体制の歌詞を書くようになる[8])。


の3度ある。ただし、いかにドギツイ歌詞の場合も高田渡のように諧謔精神を忘れなかった。


ミュージシャン間の交流[編集]
桑田佳祐・原由子 - 桑田佳祐はサザンオールスターズとして1983年のライブイベント「北海道スーパージャム'83」でRCと共演し、サザンが演奏した後がRCの出番であり、桑田は客席でそれを見た際に涙を流し、その理由を「(RCは)全然変な力が入ってなくて、まったくオーソドックスな事をやってるのね。こっち(サザン)は意識してキメ作ってビッカンビッカンやってるのに」「要するに昔と変わらないRCというか、不滅なもの、伝統的なものに完全に負けちゃったなと思ってね」と著書で語った[9]。また、清志郎の話によるとライブの打ち上げで桑田は清志郎に対し「俺の昔のオンナに似ているんですよね」「顔、姿、それにしぐさまで。もー、何から何までそっくりなんです」と話したといい、清志郎は「いったい、どんなオンナなんだ」と感じたという[10]。また、桑田が企画した『メリー・クリスマス・ショー』にも出演している。清志郎が『さんまのまんま』に出演した際に、番組のテーマソングを桑田が制作した話題に触れ、桑田の音楽性・歌唱法を揶揄する発言をし、その回をテレビで見た桑田から電話が掛かってきたという。これについて清志郎は「テレビを見てすぐに電話してくるあたりが、なかなか憎めないヤツだ」と発言した[10]。清志郎の葬儀式には原と共に参列し、同日の自身のラジオ「桑田佳祐のやさしい夜遊び」で「数えるほどしか会ったことがないけれど、ワクワクする人でした」と思い出を語り、番組の最後には「ぼくの好きな先生」を生歌で歌唱し、清志郎をしのび[11]、同年に発表された「声に出して歌いたい日本文学 」の「たけくらべ」の箇所で清志郎の物まねが挿入された。原由子は横浜のラジオの公開収録でフォーク時代のRCを初めて見たのがRCを知るきっかけであったと語っており、「初期のRCサクセション」を大好きなアルバムであると述べている[12]。
THE ALFEE - 3人がブレイクする前からの知人である。特に坂崎幸之助は清志郎のモノマネを得意としており、トリビュートコンサートに出演した際、清志郎のモノマネを披露している。ただし、桑田佳祐からテレビでアルフィーとのセッションを依頼された際、清志郎は「ヤダよ! 俺はアルフィーなんぞとやるのは。俺にも友達がいる。あんな奴らとテレビで仲良くしているところを見られたら、なんて言い訳すりゃいいんだ? アルフィーにとっちゃ俺と共演することにはメリットあんだろうけど、俺にはなんの得にもならないよ」とセッションを断った経緯があり、清志郎自身はアルフィーを認めていなかった節があるが[13]、その後、坂崎とはラジオ・テレビなどで何度も共演していることから、考えを改めた可能性もある。奇しくも清志郎の死去した2009年5月2日には坂崎の実父も亡くなっている。
泉谷しげる - RC・古井戸・泉谷の3組は、デビュー前から同じライブハウスの常連であった。RCの曲「あきれて物もいえない」の「どっかのヤマ師」は、泉谷のことを歌っている(泉谷は当時、全く売れなかった清志郎を励ますため、わざと軽蔑していたらしい)。清志郎の死に真っ先にコメントを寄せたのも泉谷であり、「あいつの死を受け入れることはない」と沈痛な思いをのぞかせた。清志郎への尊敬の念から時折、清志郎を「忌野さん」と呼びながら語ることがある。
春日"ハチ"博文 - カルメン・マキ&OZのメンバーとして知られている。かねてより清志郎の音楽性を高く評価しており、不遇時代のRCを自ら主催したライブの前座などに出演させていた。1977年を過ぎたころから78年にかけてRCにギターとしてたびたび参加。エレキ化していくRCの発展に一役買った。RCを離れた後も80年代中盤に清志郎と「ガラム」というユニットで何度かライブ活動を行い、RC末期には再びドラムとして参加している。口癖は「思うにィ〜」と「ちゅーかさ」。ニックネームは春日八郎から来ている。
GO-BANG'S - 1983年に結成され地元である札幌市を拠点として活動していたが、親の転勤によりメンバーの森若香織が東京に行くことにより、バンドは自然消滅状態に。バンドの記念として自分たちの曲をテープに録ってライブハウスに残したものを、たまたまプライベートで札幌に居合わせた清志郎が、このライブハウスを訪れテープを聞き、放った一言「いいじゃん!!」がきっかけでデビューとなる。先に東京に住んでいた森若以外のメンバーを清志郎が呼び寄せる形で東京での活動が始まった。まだアマチュアバンドだったGO-BANG'Sのデモテープ制作や演奏方法に、RCサクセションのメンバーも色々親身になってアドバイスし、後に「これがプロデビューに大きなきっかけになった」と森若は語っている。
ザ・クロマニヨンズ - 甲本ヒロトと真島昌利はTHE BLUE HEARTS、THE HIGH-LOWS、ザ・クロマニヨンズを通して清志郎のステージにゲスト参加するなど、交流を持っている。ハイロウズ時代には忌野清志郎30周年記念RESPECT!のステージで「テクノクイーン」を演奏した。また、甲本は清志郎の「REMEMBER YOU」でダブルボーカルをとっている。
渋さ知らズ - 清志郎と親交のあるミュージシャンが多くかかわっており、2004年1月10日のライブ(DVD『ALLD OF SHIBUSA』に収録)では、清志郎もほら貝とボーカルで参加。
ジョニー・サンダース - 伝説的なパンクバンド、ニューヨーク・ドールズの元ギタリスト。RCのアルバム『COVERS』にゲスト参加している。サンダースの最後となったライブをたまたま見に行っていた清志郎はステージに上げられてアンコールを1曲共演した。サンダースは、その数週間後に死去した。
ソウル・フラワー・ユニオン - メンバーの中川敬、伊丹英子、奥野真哉、高木克がRCサクセション、ザ・タイマーズのファンであったことを公言しており、現在追悼の意を込め「ぼくの好きな先生」をライブレパートリーにしている。一時ライブで「国王ワノン一世の唄」「金もうけのために生まれたんじゃないぜ」などをカバーしたこともある。ソウル・フラワー・アコースティック・パルチザンのリクオは2・3'Sのライブメンバーでもあった。
竹中直人 - 俳優。清志郎、仲井戸の大ファンで映画のみならずステージでも度々共演を果たしている。ブレーク前からの友人でもあり、付き合いは長く深く、竹中がホスト役を務めるラジオ番組にも、清志郎や仲井戸は度々ゲスト出演し、清志郎は病気療養中にも出演していた。古井戸ファンの竹中は藤原ヒロシと結成した古井戸のコピーバンド「高井戸」でも活動を行っていた。清志郎の本葬では、自ら弔辞を読み上げた。
De-ga-show - 片山広明と林栄一を中心としたフリー・ジャズ・バンド。清志郎は、同バンドの2作目『続デ・ガ・ショー』のライナーノーツを執筆し、「俺も参加させろ」「片山、なんで俺をさそわないんだよ」と書いたところ、本当に共演アルバム『Hospital』を発表する運びとなった。
トータス松本 - ウルフルズのボーカリスト。デビュー直後から清志郎の影響を公言している。楽曲を度々カバー、ライブでも清志郎と共演するなど親交は深い。
間寛平 - プライベートでも清志郎と交友があり、2001年のミニアルバム「ジャングル野郎」では清志郎から曲を提供された。レギュラー出演している「探偵!ナイトスクープ」では、清志郎を連れて探偵レポートをしたこともある。2006年2月25日大阪城ホールで行われた清志郎主催のロックンロール・イベント「新 ナニワ・サリバン・ショー」ではシークレットゲストとして登場した。しかしアースマラソン挑戦中の2009年、寛平はアメリカのカンザス州において電話で清志郎の訃報を知り、声を上げ号泣した。そのシーンは当時の日本テレビでの特番で放送された。
氷室京介 - BOØWY結成前に参加していたバンドに嫌気が差し、辞めて帰郷することを決意したが帰る前に日比谷野外音楽堂で行われたRCのライヴを観て、「もう一度バンドをやろう」と思い直した。そして布袋寅泰を誘い、結成したのがBOØWYである。
ヒルビリー・バップス - 楽曲「バカンス」を清志郎から提供された。なお、同バンドのVo.宮城宗典の自殺後に行われた追悼コンサートでは、「いなくなったヤツよりも残された人のために」という名言を吐いて清志郎自身がこの曲を歌い上げた。
ブッカー・T&ザ・MG's - 清志郎が尊敬するオーティス・レディングのバックバンドとして活躍した。また、単独でもインストゥルメンタル作品を発表している、世界的に評価されているバンド。清志郎のソロアルバム『MEMPHIS』のバックを担当し、ツアーも行った。その後も清志郎はギタリストのスティーヴ・クロッパーと親交を深めて行き、クロッパーをプロデューサーとして迎えた『夢助』などを発表している。
ブルーデイ・ホーンズ - 梅津和時、片山広明によるホーンセクション。両人は、多彩なソロ活動を行いながらもRC及びソロ転向後の清志郎と活動を共にする。
三浦友和 - 俳優。清志郎の中学時代からの友人で、東京都立日野高等学校でも同窓生だった。デビュー前のRCに参加しパーカッションを担当、その後も三浦はRCサクセションのライブに飛び入り出演したり、発売禁止となったアルバム『COVERS』にも参加していた。毎年1〜2回は清志郎が酒を持って三浦の自宅を訪ね、夜通し酒を酌み交わして旧交を温めていた。
森川欣信 - オフィスオーガスタの社長。キティレコードのディレクターだったときにRCの『RHAPSODY』を手がけた。アコースティックトリオだった頃からのRCの大ファンであり、清志郎とは公私に亘って親しい。連野城太郎のペンネームで『GOTTA! 忌野清志郎』を執筆した。
矢野顕子 - 度々共演している清志郎の友人。以前はニューヨークと日本でファクスでのやり取りをしていた。近年は矢野の「ひとつだけ」をよくデュエットしている(スタジオ・アルバムでは、矢野の『はじめてのやのあきこ』(2006年)に収録)。矢野の楽曲「湖のふもとでねこと暮らしている(DOWN BY THE LAKE, LIVING WITH MY CAT)」(『LOVE LIFE』収録)はRCのナンバー「山のふもとで犬と暮らしている」のアンサーソングと言われている。また、矢野は清志郎のことを歌った「きよしちゃん」という楽曲もステージで披露している(清志郎の死後、『音楽堂』(2010年)に収録)。月刊カドカワで連載されていた「月刊アッコちゃん」では、早朝に「起きろー!!」と大書きされたファクスが送りつけられていたエピソードを紹介している(角川文庫刊・「月刊アッコちゃん・峠のわが家編」に掲載されている)。また、「最近、連続紙使用(相手方の記録紙がなくなるまで)を編み出したとか」というエピソードを紹介している。
山口冨士夫 - 日本の伝説的なロックバンド、村八分のギタリスト。度々ステージで共演したり、RCのアルバム『COVERS』にもゲスト参加している。
吉田拓郎 - 1971年、拓郎が定期コンサートを開催していた時に、よく前座を務めていたのがRCサクセションだった。清志郎は当時、拓郎が嫌いで出番が終わると顔も見ないで帰っていたという。しかし、拓郎は清志郎を「音楽の世界ではスペシャルな男、リハーサルとかに彼が入ってくるだけで雰囲気が変わる」と高く評価していた。吉見佑子がアルバム『シングル・マン』の再発に業界を奔走した時も、拓郎は「オレはRCが好きだ」と自身のラジオ番組でRCの曲をプッシュしていた。後に清志郎は拓郎に「こころのボーナス」(アルバム『ハワイアン ラプソディ』収録)を提供した。


主な事件[編集]
1982年6月14日、生放送番組「夜のヒットスタジオ」(第709回)にRCサクセションとして出演した際、曲の最中暴れまわったり、司会者とのトーク時より噛み続けていたガムをテレビカメラに向かって吐きかけるなどの悪ふざけをし、さらにそのことで視聴者へ謝罪する司会者の後ろで舌を出したり顔をしかめるなどしたことから、テレビ局に抗議の電話が殺到。その数は500件近くに上ると言われている。
1988年、東芝EMI から発売予定だったRCのアルバム『COVERS』が、原発問題を取り扱った歌詞などがネックとなり、急遽発売中止に。後にレコード会社を変えて、ようやく発売される(詳細は『COVERS』の頁を参照のこと)。
1999年、パンク・ロック風にアレンジした「君が代」を収録したアルバム『冬の十字架』がポリドールから発売される予定だったが、同年8月に国会で成立した国旗・国歌法を巡る議論に巻き込まれることを危惧した同社が発売を拒否。結局、販売をUKプロジェクトにしインディーズのSWIM RECORDSレーベルから発売される。
2000年、SWIM RECORDSレーベルから発売予定だったラフィータフィー名義の『夏の十字架』は、インディーズ商人の実態を揶揄した「ライブ・ハウス」という曲中で暗に批判されたライブハウス・下北沢QUEのオーナーが激怒、同店と系列関係にあるUKプロジェクトの逆鱗に触れインディーズからも販売中止という前代未聞の事態となる。奇しくも、同曲が批判するインディーズ業界の問題点が実証された形となる。同アルバムは、最終的にSWIM RECORDSから発売・販売される。
2002年6月1日、FM802開局13年記念イベント「JAPANESOUL」に三宅伸治と共に、それぞれ長間敏(おさまびん)、神田春(かんだはる)と名乗ったデュオ「アルカイダーズ」として出演。米国9.11テロに関連した曲を演奏したが、放送ではカットされた。
2003年4月22日、日本武道館で開催された「アースデイ・コンサート」(TOKYO FMなどJFN加盟する全国のFM各局に生放送)に出演した際、当初予定になかった「君が代」や「あこがれの北朝鮮」の替え歌(発売当時の金賢姫をキム・ヘギョンに変更するなどした)などを歌い、会場を騒然とさせた。混乱が心配されたが、直後に出演した佐野元春による「自由に歌える国に生まれてよかった」という発言や、佐野やバンドの冷静な演奏に、イベントは救われる。なお演奏された曲の一部は、イベント開催の趣旨説明などに差し替えられ、その部分が放送されなかった。ちなみに清志郎はその後、アースデイコンサートに呼ばれてはいないが、佐野は翌年も参加している。


その他のエピソード[編集]
右利きであるにもかかわらず左手でハンドマイクを握るようになったのは、まだオーティス・レディングをレコードで聴いたことしかなかったころ、数少ないステージ写真で「オーティスが左手でマイクを握っていた」のがきっかけだったが、のちにかつて見ていた写真が実は裏焼きされたものだったことを知り愕然としたという。
RCサクセション時代、千葉県神野寺で飼育されていた虎2頭が逃げ出すという事件があり、マザー牧場でのライブ(1979年8月4日)が中止になった。清志郎は警察に「虎を殺すな!」と電話で訴えたが、結局2頭とも射殺されて一連の騒動が鎮静化。RCサクセションはその後渋谷屋根裏で「虎追悼コンサート」(1979年9月15日)を行っている。
清志郎が高校三年生のとき、担任の先生(「ぼくの好きな先生」のモデルとなった美術教師)から卒業式の後「自分が本当にやりたいことがあるなら、結婚はするな」と真剣な顔で言われたことが頭から離れず、30代後半まで独身だった。その先生が初めてライブに来てくれたときにそのことを伝えると、「君はもういいんだよ」と言ってくれたため、不遇時代より交際を続けていた「石井さん」と結婚した[14]。
長男・竜平(たっぺい)が生まれたことが大変うれしかったらしく、1989年のライブではMC中に突然「♪oh- タツ、魔法のタツが生まれたぞ お父さん子だよ」とPP&Mの「Puff,the magic dragon」の替え歌を歌う親バカぶりを披露していた。ただし、聴いている観客はなんのことかわからずきょとんとしていたため、「なんでもありません」とつぶやいて次の曲へ移るというパターンだった。1991年には忌野清志郎&竜平名義でソノシート『あこがれのソノ・シート』(「タッペイくん」「竜平くんとお父さん」「おやすみなさい」の3曲を収録、「おやすみなさい」はビートルズのカバー)をファンクラブ限定で発売した。
「音楽で生計を立てられなければ絵描きになるしかなかった」と本人が言うほど画才があり、清志郎自身のアルバムジャケットや書籍の表紙などを描いている。毎年恒例の日野高校OB展にも作品を出品していた。死後には「個展 忌野清志郎の世界」という展覧会も行われ、画集も発売されている[15]。生前最期の作品という真の意味での遺作は意外にも楽曲ではなく、絵画で、前述のデビュー39周年を記念して描かれた一旗ウサギの『39!BABY』[3]がそれにあたる。この作品は描かれた日付が2009年3月となっており、文字どおり清志郎のラストメッセージとなった作品である(「Oh! RADIO」は2009年2月完成とされている)。
中日ドラゴンズの熱狂的なファンで、ライブ衣装として中日のユニフォーム・ヘルメットを着たこともある(ビデオ『Screaming Revue』などで確認できる)。「ズームイン!朝!!」の野球コーナーに「おはよう川又さん」という楽曲を提供(中日勝利の翌朝の放送でBGMとして使用)した縁もあり、名古屋でのライブの際は、川又米利がゲスト出演することもたびたびあった。余談だが、前述のアルバム発売中止騒動が起きた1988年と1999年は、いずれも中日がリーグ優勝した年でもある。
初期のころは、肝沢幅一のペンネームで作曲をしていたこともある。清志郎の父親が沢田研二のことをなぜか決まって「肝沢幅一」と間違えていたことから。
メンフィス名誉市民。1男1女の父親であった。
特に自慢話を好む性格ではないが、冗談交じりに自慢していた例として、高校の同級生だった三浦友和のことを語る際に「あいつ(三浦友和)にギターを教えたのは俺だ」というのがある。
高校生の頃、母親が「息子が音楽に夢中になっていって、将来が心配です」と新聞の人生相談に投書し、それが新聞に掲載されたことがある。このことは『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』(フジテレビジョン)で取り上げられ、確認VTRでは清志郎本人が出演し、事実であることを認めた。
2007年から神奈川県三浦市で開催されている音楽イベント『ロックの学園』では"校長"となっており、「忌野清志郎校長室」が一般公開されている。開校当初(第1回)から現在もなお"出張中"という設定で、校訓は「愛し合ってるかい?」。
自転車愛好家で、仕事先が都内であれば自転車で通っていた。[16]
「音楽以外で収入を得るのは負け」という考えを持っていた。


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